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「私を覚えていますか?」駅で11年ぶりに会った患者さん

私は今年で59歳になります。それなりに長い時間です。この間にたいていのことは経験したつもりです。しかし、それでもやっぱりあっと驚くことが起こります。

2018年4月、熊本OCDの会月例会の後、会のメンバーと喫茶店で雑談しているときでした。隣のテーブルに座っていた若い女性が、「え、原井先生?原井先生ですよね!お久しぶりです、私を覚えていますか?○○です」と言い出し、泣きはじめました。

彼女の名字はありふれています。私の知り合いの中にも同姓の方が数名います。顔を見てもピンときません。彼女の治療を担当した期間は1年以下でした。熊本を離れてからは接触がありません。治療したときは高校生、今はアラサーの女性で様子も変わっています。私があまり覚えていないと言っても許してもらえるでしょう。

後から調べていろいろ思い出しました。思い出せた理由の1つはOCDの会が出している治療感想文集「とらわれからの自由」No.3に彼女が寄稿してくれていたからです1。もう1つはルイジアナ州立大学博士課程の学生として臨床実習をしていた小松先生も彼女の治療を手伝ってくれていて、彼女のことを覚えてくれていたからです。とらわれからの自由の中でのペンネームは「ナカちゃん」です。これからナカちゃんと呼ぶことにしましょう。

11年前に治療を受けたときの彼女と感想文「それでどうにかなるんじゃね?」

ナカちゃんの感想文のタイトルです。3日間集団集中治療でエクスポージャーと儀式妨害を行うことで、寝る前に2、3時間をかけていた確認強迫をやめ、強迫を抑えるために飲んでいた安定剤もやめて「それでどうにかなるんじゃね?」と自然に思えるようになったのでした。

初診時、18歳だった彼女は中学生のころから精神科を受診していました。抗不安薬、睡眠薬から胃腸薬まで10種類以上の薬を依存症と言えるほどに大量に飲んでいました。ODやリストカットによる救急受診も月に数回ありました。一方、私の治療の基本は重症の人でも同じです。気分や症状のセルフモニタリングと同種薬物の単剤化と減量、SSRIの増量、頓服のように調子の波に合わせて薬を増減することを止めさせ一定量を定期的に服用してもらうことです。そして一番の山場が3日間集団集中治療でした。その様子についてはナカちゃんの文章から引用しましょう。

3 日間集中プログラムに参加した。ハッキリ言って、地獄だった。

H 先生が私に質問をする。「一番なくしたくないものは?」 私は携帯だと答えた。携帯をなくすのは怖い。大切な人達と連絡がとれなくなるから。だけど強迫の治療においてその様な曖昧なイメージはタブーらしい。散々質問を繰り返された。重ねて行くうちに絶望のループに嵌まった。私の不安に答えが出ない。いや正確に言えば、強迫の不安に答えなんてないのだ。根拠もないものに怯え、形がないから対処法が判らない。次第に疲れて来た。考えたくない、目を逸らそうとしていた池に目線どころか体ごと放り出された感じで、質問が終わった後もしばらく放心した。

だけど濡れた服もいずれ乾くと言うもので(それか濡れた状態に慣れたと言うべきか)私はその正体不明の恐怖に対してあまり敵意を抱かなくなった。

(中略)

3日目に「これからまたエクスポージャーだけど、不安は?」と聞かれて、私は「あまりない」と答えた。少しびっくりされた。それまでの2 日間で「確認」への対処法が多少なりとも身に付いた自信があったからだ。 荷物手放した、カードなくした(マジでなくした)、ものを仕舞った。昨日それをやって今無事なのだから、大丈夫じゃねぇのと。

(中略)

今、仕事をしている。アルバイトだけど1 日8 時間。強迫による支障はない。仕事は楽しい。

でもたまにその恐怖が背中越しにやって来る時があって、そんな時私は「ああ、どうにでもなれ」と頭で呟いてそこから離れる。 全て集中プログラムで学んだ事だ。今とても充実している。

集中治療が終わった後

当時の私にとっては印象的な患者さんでした。買い物袋にも入り切らないような量の処方薬を集中治療の最後に持ってきて「捨ててください」。薬はSSRIだけになりました。感想文もさっさと書いてくれて、内容は高校生離れしていました。そして将来の目標を尋ねると、

有名になりたい、全国に大切な人がいっぱいいる、その人達へのお礼をしたい
その手段として、歌を自分で作って歌う人になりたい、東京にも出たい

大半の患者さんは将来の目標を尋ねると「普通になりたい」と答えます。歌手になりたいは10代女子の夢としてはよくあるのかもしれませんが、患者さんの中では珍しいことでした。しかし、その後、ナカちゃんの歌声を放送で耳にすることはありませんでした。そして3日間で劇的な回復を遂げ、印象深い方は他に何十人といます。私は名古屋にうつり、毎月10人ずつの患者さんに集団集中治療を行うようになり、ナカちゃんのことは忘れていったのでした。

ナカちゃんからのメール

会った後、ナカちゃんとメールでやりとりするようになりました。その一部を紹介します。

原井先生へ

原井先生のお顔を見た瞬間「まさか」と信じられず、先生だと確信できてから涙が止まらなくなって自分でもビックリしました。

初診の頃、前にかかった病院で大量に薬を貰っており、記憶も保てないような生活をしていました。家族とも折り合いが悪く、猜疑心と反発心の強い子どもだったと思います。親すらも信用していなかった当時の私にとって、先生方は初めて出会う「心から信頼できる大人の人達」でした。教えて頂いたことは人生に大きな影響を与えました。

原井先生と岡嶋先生が名古屋に行かれてから、近くの小さなクリニックに転院しました。しかし薬を処方されるだけでしたので、通院の必要性が分からなくなり、自分な判断で治療をやめました。これで卒業だと思っていましたが、根っこの問題は山積みでした。人への不信感やお金を使うことへの恐怖など別の不安に襲わるようになりました。それでも何とか生活していましたが、そのうち出勤もできなくなり、5年ほど勤めた店を自分から辞めました。

一人だけになると今度は不安に耐えきれず、身近な人に助けを求め、でもその相手も結局は抱えきれなくなって離れて行くパターンを繰り返し、絶望感を募らせていました。今、振り返るとこの頃は目先のことを大きく心配し、それに囚われ、先生方から教えてもらった「不安を観察する」という基本的な姿勢を忘れていました。

ただそれでも「18歳のとき、私は確かに救ってもらった」「そういう技術を持っている人が探せば絶対にいる」これだけは忘れずに強く信じられました。先生との出会いは忘れていなかったからです。カウンセリングが受けられる病院を探し、そこに通い始め、今も定期的に受診しています。時間は掛かりましたが、昔から考えると信じられないくらい穏やかな生活を送っています。

・・・

「私は頭がおかしい、病気だ」という自意識をずっと抱えて生きていました。 ある程度治療が進んだ所で、その意識への"こだわり"が自分の変化を妨げている事にも気付きました。私の人生とはその場その場で生じる自分のこだわりに気付き、それに向き合う作業を繰り返すことなのでしょう。そうだとすれば、10代のとき先生方に教えてもらった事は、これからも生き方の基本になるのだと思っています。

今年の始め、強迫性障害を扱ったテレビ番組の動画をネットで見付けて見ていたら、原井先生が出演していました。とても懐かしく、先生にお礼のお手紙を書きたいと考えていました。そんなタイミングで、熊本駅で先生とお会いし、号泣しながら、自分の中の何かが腑に落ちていく感覚がありました。 大切な学びと、そして偶然の遭遇をありがとうございました。 お陰様でメールをお送りする勇気が持てました。

私の返事の中に、昔、小松先生に「東京に出て歌手になりたい」と話しておられたことを伝えました。

お返事ありがとうございます!小松先生のことも覚えています。 が、歌については一切覚えておらず、そんなこと言ってたの? と変な汗をかきました。歌うことは今でも大好きですが、プロになりたいなんて思った事があったのかしら。

私が昔からもっていた夢は物書きになることです。今でも待ち続けています。でも、他人には本心を隠していたのだろうと思います。 今日は通院先でのカウンセリングがあり、たまたま心理士さんに同じようなことを聞かれました。「子どもの頃になりたかったものは?」

物書きになりたかったです。しかし、母に言われた言葉や自分の病気のせいで大した失敗すらしないうちに目標に蓋をしました。私の中ではタブーになっていたようで、昔話をするうちに涙が出ました。

自分の逃げ癖のようなものは自覚していて、それを少しでも改善したいと今も試行錯誤をしています。しかし、まさか11年前の自分の言葉にもそれを突きつけられるとは思いませんでした。18歳の集中治療の直後でも、物書きの夢から逃げるために一生懸命だったのですね。

東京に行くため、お金を貯めていたのはその通りです。しかし、貯金額が目標に近づいたときに父が亡くなり、それを父の葬儀代に充てました。父のためにお金を出せたことは本当に良かったと思っています。ところが変なもので、そこで心が折れた部分もあり、「私はやっぱり目標を達成できない」という拗ねた意識が強くなりました。 本当に、起きた出来事と自分の目標なんて関係ない。やりたければやり続ければ良かっただけなのに、私はどうも言い訳探しばかりしてしまうようです。 今が、このような逃げ癖の問題と向き合うタイミングのようです。先生と再会して、当時の先生との面談のことなど思い出しました。あの淡々とした、しかし辛抱強く自分の気持ちを探って行く方法を、また自分にしてあげなくてはいけないのでしょう。

怖いものは沢山あります。しかし怖いものに向き合うやり方も教えられています。となると、言い訳もあまり上手くは出来ませんね。

先生のように結果の残るお仕事ができる人に私もなりたいです。

ブログ、ぜひ。嬉しいです。協力させてください。

20年、30年後には?

私とナカちゃんの年齢には30年の差があります。彼女が私の今の年齢に達したとき、私は90歳に手が届きます。その時、やはり10年以上の間隔をおいてもう一度会い、彼女から「私を覚えていますか」と聞かれたら、私はどう答えるでしょう?ほぼ100%「よくわからない」でしょう。こうしてブログを書くこともやめているでしょう。一方、彼女は私のことを覚えてくれているでしょう。このブログを読み返してくれているかもしれません。結果が残るような仕事を私ができているとしたら、それは私との関わりを覚えていてくれる人がいるからです。

歳を重ねて気づいたことがあります。何歳になっても人は社会性動物です。人間関係がその人らしさを作ります。そして人間関係のかなりは今までの関わりの記憶からできています。加齢は残酷です。私は過去を忘れやすくなり、新しい記憶は蒸発しやすくなります。しかし、相手は私との過去を覚えていて、新しい記憶を重ねて行きます。

今年の春、80歳になった行動療法の恩師に二度、お会いしました。2度目は医学生の娘を連れていきました。娘に女医の大先輩の経験を知ってもらいたかったからです。恩師の記憶力は低下していて、トイレから戻るとき迷ったり繰り返し説明しても娘を私の家内と取り違えてしまったりするぐらいでした。しかし、「それでどうにかなるんじゃね?」と言いたくなるぐらいの楽しい時間でした。「私の人生は楽しいことばかりだった、過去の嫌なことは振り返らないの、今をどうしたら良いかそれだけを考えている。また遊びにきてちょうだいね、本当に楽しかった」。後から娘に尋ねると「人生楽しかったと仰っているのが印象的だった。羨ましい」

私が記憶を保てなくないような高齢者になっても、ナカちゃんのような人が過去を覚えてくれていれば、2018年4月のような嬉しい驚き、恩師との会食のような楽しい時間を私もまた経験することができるでしょう。私がこれから働ける時間は10年ちょっとというところです。この間、これからお会いできる人に良い記憶を残せるようにしていこうと思います。たとえ、私が忘れたって「それでどうにかなるんじゃね?」

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コメント

お邪魔いたします。ナカです。
尊敬する先生に自分のことをブログで書いて頂き、本当に嬉しく光栄に思います。と同時に、「この11年間、自分は必要な努力をできていただろうか。まだまだやれる事があるんじゃないだろうか」と言う思いも生まれ、自らの生き方について考える契機にもなっています。
直情的で何事もすぐ悲観して捉える癖のあった私が、一時ぐっと踏み止まって思考を洗い直すようになれたのは、最初に先生方が教えてくださった治療法があったからです。きっとあの頃先生方と出会っていなければ、私はとっくの昔に死んでいたと思います。

この11年はあっという間で、私は30間近になってようやく生きる気概が植えついたと言いますか、
これまではただただ「生きたいけどどう耐えよう」という質問の繰り返しだったのが、今ようやく「生きてくから何をしよう」というステージに立てたような気がしています。
世間一般の人たちと比べたらきっとずっと遅い歩みです。でも、私には必要な時間でした。

「私がこれから働ける時間は10年ちょっと」という先生の文章に、結構な衝撃を受けてしまいました。
私が慌てふためいて過ごした11年間は驚くほど速いスピードでした。それをもう一周するだけで、先生はそんな時期に差し掛かってしまうのでしょうか。
私が治療を受けることが出来た期間は1年ほどでしたが、本当に貴重なお時間を頂いていたのだなと再確認しました。
あの頃の私のような、先生の治療を本当に必要とする誰かが、これから先ちゃんと先生に出会えて楽になれますように、なんて妙な祈りを抱いてしまいました。
本当にありがとうございます。

投稿: ナカちゃん | 2018/07/09 04:45

ナカさん、
私のことをまるで命の恩人?のように書いていただいてありがとうございます。他の医師やカウンセラーもご存知です。治療期間は私たちの方が短いでしょう。しかし、私たちの治療は他とは違っていたことを理解し、今も覚えておられます。
1年間の治療が11年間、そしてさらにもっとこの先も-「10年ちょっと」という文章に衝撃を受けたというのは2、30年を考えているという意味でしょうか?-ナカさんに影響を与え続けるのだとしたら、私としては身の余る光栄です。30年後、おそらく私には法名がつき、ナカさんは今の私の歳になっています。具体的に想像するが難しいですね。このブログも残っているかどうか?
一方、10年はほどよい時間です。自分に問いかける質問が変わったことを自覚できます。それぞれ70歳、40歳になったときに問いかけがどう変わっていたら良いのか?と考えることもできます。記録を読み返すこともできるでしょう。
ナカさんの祈りが実現できるように私も行動します。そして、ここにも記録を残していただけることでナカさんは祈りの実現を手伝ってくださっています。これからもよろしく。

投稿: 原井 | 2018/07/09 15:29

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