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自分を振り返る3 名古屋での10年間

この10年間で印象的なできごとは?

10年間いろいろありました。仕事はもちろんですが、私的なことがたくさんありました。浪人中の息子と1年間、2人で暮らしました。彼の予備校となごやメンタルクリニックの間は300mぐらい、朝に二人分の弁当を作り、一緒に名駅まで通ったのは忘れられない思い出です。九州で家内と暮らす娘が、まだ高校生だった夏、名古屋まで逃亡してきたことがありました。中退しても構わないという娘を九州に送り返したときのことを思い出すと今でも複雑な感情に襲われます。東日本大震災の翌月18日に父が亡くなりました。父が入院していた京都の病院から歩いて5分ぐらいのところに私が通っていた幼稚園がありました。震災があり、父は死の床に就き、懐かしい幼稚園の建物は少子化のために廃墟になっていました。そして、その前に1人で立つ私は満開の桜に囲まれていました。

2008年1月8日がなごやメンタルクリニックでの最初の診察日でした。この日の患者さんは1人だけ。翌日は8人。2月の第1回目の強迫性障害の3日間集団集中治療には4人が参加してくれました。4人とも改善し、中学生だった1人は高校に進学しました。他の3人は仕事ができるようになりました。3人は再発予防のために薬(1種類のSSRIだけ)を服用していて、今も、2,3ヶ月に一度、なごやメンタルクリニックに通い続けています。何年と患者さんを継続して診ることができるのはありがたいことです。大学に進学した人や就職した人、新しい家族に恵まれた人がいます。中には2回名前を変えた人がいますが、それもまた人生なのでしょう。家に引きこもって数時間の手洗いをしていた人が、変化に富む人生を歩むようになったのは病気から開放されたことを意味します。診察に赤ちゃんをつれて来てくれたり、新生活の話をしてくれたり、あるいは子どもの結婚生活の心配や孫の話をしてくれたりした患者さんのことを思い出すと「この仕事をしてよかった」と思えます。

メンタルクリニックは客商売です。患者さんが来てくださらなければ話になりません。2008年2月には100程度だった1ヶ月あたりの診察数は、6月から500程度になりました。一方、診察のペースをなかなか合わせられず、最初のころは患者さんを待たせたり、事務から注意を受けたりすることがたびたびでした。当時のことを覚えている人はもうあまりいないと思いますが、改めて、すみませんでした。

振り返ると

人生を終わってから結果だけを見たとしたら、いろいろあっても結局はそれほど大したことはないのが普通です。息子はマンションの鍵を開けっ放しにしていることがよくありましたが、空き巣に入られることはありませんでした。これぐらいのいい加減さのおかげで彼は中国留学2年間を無事に終えたのでしょう。娘は1浪後に志望校に合格し、今は医学部5年生です。私は10歳、年を取りました。この間、父のことで忌引をした時以外は、診療を休んだことがありません。48歳からの10年間、熱を出すこともなく、大病もせずに無難に過ごすことができたわけです。

10年間のなごやメンタルクリニックでの院長の仕事を無難にやりこなせたのには訳があります。強迫性障害はこだわりの病気です。ドアの敷居をまたぐだけでも10分以上かかる患者さんはざらです。質問を何度も繰り返す方もあります。些細で無意味だと思うからこそ、細かなことを気にして徹底的にクリアにしようとする強迫性障害はほとんどの精神科医や心理士にとっては扱いにくい疾患です。なごやメンタルクリニックまでやってきた患者さんたちの大半は地元はもちろん、東京でも行動療法をしてくれるところがなく、「後はここしかない」と思って来られた方々でした。患者さんからの強迫的な問い合わせに快く応じ、診察やカウンセリング、3日間集団集中治療を受けられるようにしてくださったのはクリニックの事務員です。感謝しています。

書き残したもの

私は単著では5冊、共著では2冊の本を出しています。翻訳書では6冊を出しています。そして2冊を除いて全て名古屋での10年間に書いたものです。ナツメ社の「図解やさしくわかる強迫性障害」は患者さん・家族向けの本として約2万部が売れ、マイ・ベストセラーになっています。この本を書くきっかけは和楽会の貝谷理事長が出版社との間を取り持ってくれたからでした。そして、一般向けにやさしくわかるような文章を私が書けるようになったのには訳があります。

このブログは和楽会が出している季刊誌「ケセラセラ」がもとになっています。最初に書いたのが51号でした。今、改めて見直すと「薬物投与のスケジュールと投与時の状況(刺激のコンテキスト)、そして投与後に起こる出来事(随伴性)を統制する方法・・」「今の診療報酬制度はいつのまにか制度の維持が最大の目標になって・・・。」 まあ難しいことをよく書いたものです。考えは今も変わりませんが、今ならこうは書かないでしょう。

それから10年。この間の私の書き方の変化ははっきりしています。そして、それは私の原稿をチェックしてくださった和楽会の担当者と、ときどき目を通しては感想を教えてくれる患者さんのおかげです。

これから

2018年1月からしばらく休みをとってから東京でメンタルクリニックを開業することにしています。強迫性障害に対する行動療法を中心に行うという考えは10年前と変わりありません。しかし、当時よりはもっとオープンに、また治療する側に立つ人を支援できるようなことをしたいと考えています。皆さんにまたお目にかかれる日を楽しみにしています。
今後の計画については原井のホームページにてお知らせします。

参考

ケセラセラ 51号

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コメント

私は10年以上前、菊池国立病院で先生に診察していただきました。去年父の具合が悪くなったり、子供を授かり夜間寝られなくなり病気が再発し先生の事を思い出しました。
インターネットで検索し、先生が翻訳されたガワンデの著書を読みまして感銘をうけました。
父がすい臓ガンの末期で余命2週間と診断されたこともあり、死すべき定めを購入し、死生観が変化しました。
私自身まだ不安定な状況ですが、先生のブログを拝見し、考えても仕方ないことは考えないように受け止め色々な人がいて当然だからと思います。
父はまだげんきです。ガンは一昨年の夏に早期発見できたので手術を行い抗がん剤治療をしました。その後在宅医療中に誤嚥性肺炎を起こし寝たきりになり熊大病院へ転院しました時が余命2週間との診断でした。父はホスピスへ転院し、pet検査を依頼して検査を行った所ガンの再発、転移はありませんでした。父の入院した病院では、二例目の退院する患者になり喜んでくださりました。
長文失礼致しました。

投稿: 大久保淳平 | 2017/10/14 09:57

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