Being Mortal 死すべき定め
去年の今頃から,この1年間,毎日“死”を考えています。正確に言えば,死についての本の翻訳をしています。インド人二世の外科医,アトゥール・ガワンデが書いたBeing Mortal(死すべき定め)です。とても重たい本です。一章を翻訳すると,しばらく他のことが手に着かなくなるような読後感があります。死を好んで口にする人はありません。しかし,死がなければ小説や刑事ドラマ,事件ニュースが成り立たちません。死は人目を引きます。そして,この本を翻訳することで,死を考えることがよりよく生きるために必要だとつくづく感じようになりました。逆に言えば,どういう死に方をしたいのかを生きているうちに考えていないのが問題なのだと思うようになりました(もちろん死んでからでは遅すぎです)。跡継ぎはどうする?お墓は?財産や遺品は?などが決まっていないと“遺産争族”などとドラマになってしまいます。
死んだ後のことは「私は知らない,全部人任せ」と思う人もいるかもしれません。しかし,死は一瞬ではありません。何年と長い過程を経て衰え,死んでいきます。その間に,病院や施設,家か?,一人で静かにか/家族に囲まれて賑やかにか?,身体中を管に繋がれるか/自分の口で食べられなくなったら終わりにするか?,どれだけ苦しくてもできるだけ長く生きるか/苦しいより楽に早くか?,こうした選択肢が最後の何年かの間にひっきりなしにやってきます。昔は考えられなかったような選択肢が今はたくさんあり,そして“正しい現代的な死に方”というようなガイドラインはありません。Being Mortalの中では,おおよそ各章で二人ずつが亡くなります。その十数人の死に方は本当にさまざまです。Gawandeの祖父のように100歳を超えた最後の歳まで馬にまたがって自分の農場を見回り,最後は転倒して翌日亡くなるという死に方は素敵なのですが,昔話です。35歳で夫と赤子を残して肺がんで亡くなったサラ・トーマス・モノポリのように検査と放射線療法、あらゆる化学療法などの副作用に苦しめられながら,呼吸器に繋がれ,最後は呻きながら逝く死に方は現代的ですが,それを選びたい人はいないでしょう。
翻訳中の一部から引用します。
生まれ落ちたその日から私たち全員が老化しはじめる。この人生の悲劇から逃れるすべはない。この事実を理解し,受け入れている人もいるだろう。私の場合も,亡くなったり,亡くなりつつある担当患者が夢に出てくることはもう起こらなくなった。しかし,だからといって,治せないことに対処する方法を身につけたというわけではない。治せる能力ゆえに成功している専門職に私はついている。治せる問題ならば,医師はそれに対して何をすればよいのかを知っている。治せないということに対して十分な答えを医師が持ち合わせていないことがトラブルや無神経さ,非人間的な扱い,言語を絶する苦しみの原因になっている。
死すべき定めを医学的経験にするという実験はまだ二三十年の歴史しかない。まだ未熟なのだ。そして実際の結果は,実験に失敗しつつあることを示す。
私は人の死に接することが多い職業についています。両親も見送りました。死については多く知っているはずなのですが,それでも死について考えることが足りていません。訳すうちに,以前働いていた精神科病院で看取った患者さんたちのことを考えるようになりました。医師の業務として処置し,家族に説明し,死亡診断書を書いていました。当時は,死期が近いと分かっている患者さんに「最後の日をどう送りたいか?」と聞くような考え自体がありませんでした。今は,その患者さんたちは本当に病院で死にたかったのか,最後の日々をどう送りたかったのか,と考えます。そして,そのような疑問を全く持たなかった当時の自分を思い出すとそのときの患者さんには申し訳なく思います。
この本は副作用があります。読むと老化の自覚が進みます。引用しましょう。
目はまた別の理由でやられていく。蛋白が結晶化した水晶体は高い耐久性を持つが,時間が経つについれて化学的に変化し,柔軟性を失う。それが40代に大半の人が起こす老眼につながる。同様に色が黄変する。白内障(加齢や紫外線への過度な暴露,高コレステロール血症,糖尿病,喫煙などによって水晶体に起こる白っぽい濁り)が起きなくても,網膜に到達する光の量は,健康な60歳でも,20歳の場合の3分の1になる。
2014年の夏にここを訳してから,私も自分の目の老化をはっきり自覚しました。前から分かっていたのですが,知らない振りをしていました。35年間のコンタクトレンズ生活とお別れして,二重焦点メガネにすることにしました。これでレストランのメニューの細かな字が読めなくて適当に注文するなんてしなくてすみます。
この本は話題になっています。このビデオでは,サラ・トーマス・モノポリの寡夫,リッチがガワンデのインタビューに応じています。
http://www.pbs.org/wgbh/frontline/film/being-mortal/
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コメント
翻訳は7月には書店に並ぶ予定です。
投稿: 原井 | 2016/03/30 20:21
はじめてぶしつけなコメントさせて頂きますこと、お許しください。
Being Mortal、「死すべき定め」として出版される予定なのですね。
初めて原書を読んだときから、どなたかが邦訳を出版してくださらないかと思っていました。
患者側の方にも医師の方にも手にとって頂きたい本だと思いました。
(私自身も実務翻訳者なのですが、自分の手には余ると思いました)
先生も仰るとおり、「重い本」ですけど(私も両親を送りましたので、個人的にも「重い」本でした)。
私は調べるのが仕事のようなものですから、このブログ記事から辿って、先生がどのような方なのか検索させて頂きました。先生のような方が本書を翻訳して下さること嬉しく思います。
本書を読んだときの読後感を記事にしております。適当に読み捨ててくださいませ。
http://sayo0911.blog103.fc2.com/blog-entry-413.html
投稿: Sayo | 2016/06/16 15:21
Sayoさん
コメントをありがとうございます。いつか,翻訳家を専業にしておられる方と知り合いになりたいと願っていました。だから,コメントを頂いたことがとても嬉しいです。私のことを調べて頂いたのもありがたいです。そのための“原井宏明の情報公開”ですから。
リンク先の感想も読ませていただきました。
ついでに辞書・参考書について書き込みも。
翻訳に当たって,Old crockなど高齢者の表現に悩みました。英語でも日本語でも蔑称から尊称,婉曲表現,医学表現,古語までうんざりするぐらい同意語があります。いままでは日本語表現探しに,主に大修館書店 日本語大シソーラスに頼っていました。今回,SayaさんのサイトでWord Net with corpus/英日統合版を知りました。使ってみます。
投稿: 原井 | 2016/06/17 08:18
原井先生、
コメントありがとうございます。
文書の種類にもよりますが、日本語の表現には私もいつも悩みます。
角川類語辞典や大修館シソーラスは私もよく使います。頼りになりますよね。
最近は先生が書いてくださったWordNetも愛用しています。英語のあとに日本語の対応訳語が出てくるので、統合版を使うことが多いですが、日本語版、統合版、英語版3種類ともダウンロードして使っています。
→http://wordnetepwing.osdn.jp/
画面上のブラウザはフリーの辞書検索ソフトEBwin→http://ebstudio.info/manual/EBWin4/EBWin4.html
(ご存じでいらっしゃいましたらご放念くださいませ)
とはいえ、もちろん、先生の方が私のような門外漢(が毎回必死であがきながら仕事しています)より、例えば「高齢者」の言換えひとつとっても語彙は豊富でいらっしゃるに違いなく、そのような方の手で本書が翻訳されたこと、本当に嬉しく思っております。翻訳そのものもですが、内容的に「しんどい」本であったと思います。
たくさんの方に読んで頂きたいですね(「死すべき定め」もキャッチーでもなく内容をよく表したよいタイトルだなと思います)。
投稿: Sayo | 2016/06/18 23:20
辞書話ではお互い盛り上がれそうですね。私からあと追加できるのは,心理学領域の翻訳では,有斐閣のマルチラテラル心理学。著者の一人ということもありますが,記述が固いので重宝しています。Windows10 64Bitでも動くビューワーも出してくれているのがありがたい。
私は確かに医師で,認知症専門の病院でも働いていました。でも,老年科から身を遠ざけるようにして今の職場に移りました。「しんどさ」は逃げてきた自分に本の内容が突き刺さるという意味でもあります。また,幅広い読者にとって読みやすい本になっているかどうかも気になります。私のような訳者は,医療関係者にしかわからない専門用語を使いがちです。
ところで,「死すべき定め」には比喩がたくさんでてきます。女性には広く興味を持たれているけれど,中高年男性は決して読まない本としてフィフティ・シェイズ・オブ・グレイがでてきます。これは日本人女性でもよく知られた本なのでしょうか?
投稿: 原井 | 2016/06/19 10:31
原井先生、
コメントありがとうございました。
納期が迫って修羅場っていたため(私の仕事で一番多いのは2~3週間程度のものです)、お返事遅くなりました。
有斐閣のマルチラテラル心理学は知りませんでした。現時点で仕事に使用することはなさそうですが、将来のために心に留めておきます。
「死すべき定め」、PDFで一部読めるようになっているんですね。斜め読みですが読ませて頂きました。翻訳を生業にされない方のものとは思えない読みやすい訳になっていたと思います。専門用語は、Gawande先生が使っていらっしゃるので、ある程度しょうがない部分もありますし、この頃ではインターネットのおかげで患者や患者家族の方も専門用語をよくご存じだったりしますので、「医師も患者も家族も死ときちんと向き合い、「よりよく死ぬ」ためにはどうすればいいか、どうしたいかを考えることが大事」という原著者の思い(←もううろ覚えの部分がありますので、多少間違っているかも)がきちんと伝わることが大事なのかなと思います。
フィフティ・シェイズ・オブ・グレイは私は知りませんでした。Google検索では「日本ではそこまでブームでは・・・」という印象でしたが(あくまでも私の印象ですが)、ハーレクインのような感じを受けましたので、女性受けするというのは納得です。
投稿: Sayo | 2016/06/21 12:48
私の翻訳について,翻訳を専業にしておられる方から評価をいただけると嬉しいです。
Betterを翻訳するとき,安西徹雄と別宮貞徳の本を読むなど翻訳についても真面目に取り組んだつもりでした。でもプロの目からどうなのかと思っていました。(ちなみに納期は守ってません。ある本は2年ぐらい棚晒し。学会場ではその出版社のブースを避けるようにしています。この点ではプロ根性ゼロ。)
フィフティ・シェイズ・オブ・グレイは私の職場の女性に聞いても,聞いたことがある程度の人が1人いたぐらいでした。ネット情報と実感が大きくずれている1例のようです。
投稿: 原井 | 2016/06/22 17:22
別宮さんの本は昔流し読みした記憶があります・・・(汗)
専門分野の勉強もですが、翻訳についても、年数はそれなりなんですけど、流されるままここまでやってきてしまった感があるので、今頃になって(少し)きちんと勉強しています。
正確を期しながら読みやすさを意識するということは、翻訳者でもなかなか難しいことなので、本業の合間にされていることを考えれば、凄いことだなあと思います(私は実務の方でして、1冊の本の流れを俯瞰しながら訳す術には長けていないので、「プロ」と言って頂くのは恥ずかしい限りです)。
来月書店に並ぶということですので、週明けになりますが、みすず書房さんの以下の頁をブログ該当記事への自分コメントという形で紹介させて頂いてよいでしょうか。ブログを訪ねてくださるのは多くても数十人程度ですし、昔の記事へのコメントなので目を引かない可能性は大で、その点大変申し訳ないのですが、心に残った原著がきちんと翻訳してくださる方の手で訳書として形になったということは伝えておきたいと思いまして。
http://www.msz.co.jp/book/detail/07982.html
投稿: Sayo | 2016/06/25 14:20
「流されるままここまでやってきて」というのは私の本業(精神科医としての診療)にも当てはまることです。とりあえず仕事ができている間は人は動かないです。困った、どうしようという自覚がなければ、自分のやり方を見直したり、他人のやり方から学ぼうとしたりはしないはずです。
その意味で、Sayoさんが日曜訳者の私とやりとりしてくださっていることはありがたいことです。Being Mortalが「手に余る」と思われるきっかけを作ったわけですから(では、私の訳文は完璧!なんてことはないので、今は緊張しています。)
本は今日から販売されています。
みすず書房のページについては、編集者と相談させてください。よろしければ、私にメールをしていだけるとそのまま編集者に転送できるので助かります。私のメールアドレスは以下に記しています。
http://harai.main.jp/contact/contact1.html
投稿: 原井 | 2016/06/25 16:56
原井先生
Being Mortalをアメリカで購入し、まだ読書中です。(買ったのは年初なのですが。)
Being mortalは、日本語でどう訳すのかな、と思っていたところ、先生の訳書を発見し、そのタイトル訳に感動、というよりショックを覚えました。
そうだ、それだけ深い意味のある言葉なんだ、と気づかされました。すごい翻訳家がいらっしゃるものだ、と思ったら、なんとお医者様でいらっしゃることがわかり、またまたびっくり。
いや、お医者様であるからこそ、真意を汲むことがおできになったのでしょうね。
本当に重い内容ですが、避けてはいられない老いについて、しっかり考えるためにも、がんばって読み終えます。
投稿: 竹崎 | 2016/08/10 22:55
竹崎さん
ご感想をありがとうございます。Gawandeは短い言葉で深い意味を表現させる名手です。直訳ではそれを生かせません。
日本語で同じように機能する短い言葉を選ぶのに苦労しました。各章のタイトルもそうでした。
拙訳についてご感想があればぜひ教えて下さい。
投稿: 原井 | 2016/08/16 18:29